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企業家コラム
VOL1.近代大阪の経済発展と企業家
小林一三  近代日本の経済発展はしばしば「上からの資本主義」として語られることが多い。しかしながら、政府の役割を過度に強調してはならない。明治期の官営工場の多くが失敗したように、政府の直接的勧業政策は成功したとはいえないものだった。戦前日本の主導産業であった繊維産業は官営工場から生まれたというより、民間企業として発展したものであった。第二次大戦後も特定の産業への直接的育成策は少なく、そうであった場合にはその成果は必ずしも良好ではなかった。ここ十数年、長らく護送船団行政の下で守られてきた業界がグローバル・コンペティションのなかで苦しんでいるのに対し、世界市場で激しい競争にもまれてきた自動車メーカーなどが競争優位を獲得するにいたっていることをみればよい。やはり発展の基本的なエンジンは民間の企業家、企業にあったのであり、明治以降の日本の経済発展は基本的には市場経済の枠組みのなかで達成されてきたといえるのである。
 大阪はとくにこの典型的な町だった。大阪は江戸時代に「天下の台所」として栄えたが、明治維新期には衰亡の危機に瀕していた。このとき、政府の高官を辞して大阪の実業家となった旧薩摩藩士・五代友厚は、「合本企業」(ジョイント・ベンチャー)というニュー・ビジネス・モデルを持ち込んで、元気を失っていた旧商人層を覚醒し、かれらの人的および物的資本を新しい方向へと導いた。
 長州や丹後から大阪にやってきた徒手空拳のベンチャー企業家・藤田伝三郎や松本重太郎は紡績業、銀行業、鉄道業など新しいビジネスを大阪に開花させた。山辺丈夫や菊池恭三のように、外国で先進技術を学んだ技術者タイプの経営者も台頭したし、繊維関係を中心に商社という新しい商業形態も登場した。
 日露戦後から大正期になると大阪は近代的工業都市としてさらに発展、人口が急速にふくれあがった。高速輸送機関としての電鉄を、住宅地、教育・レジャー・文化施設、ショッピング・センター(ターミナル・デパート)などの開発と関連づけて経営しようとした小林一三のアイディアは、その後の日本の私鉄経営のモデルとなった。都市にはこれまでにはなかった大衆消費社会が芽生え、これに応えようとする新商品群が多数登場することになった。赤玉ポートワイン、クレパス、魔法瓶、オムライス、カレーライス、おまけつきグリコ、カメラ、カルピス等々であり、いずれも大阪の企業家たちが開発したものだった。電気の時代の始まりでもあり、松下幸之助、井植歳男、早川徳次という「家電御三家」が創業したのも大正期から昭和戦前期であった。
 第二次大戦後においても大阪発もしくは関西発のイノベーションは限りなく多い。即席ラーメン、プレハブ住宅、ビニロン、電卓、缶コーヒー、カプセルホテル、自動焦点一眼レフカメラ、自動改札機等々。このように、旺盛な企業者活動が連綿と繰り広げられてきた町、それが大阪であった。
 それはなぜ? 何が大阪にエネルギッシュな企業家活動がもたらしたのか? 旺盛な企業家精神を発揮した人はどのような人だったのか?それらを知ることは、単なる懐古趣味を超えて、現代のビジネス社会にも通用する叡智を我々に与えてくれるのに違いない。
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