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株式会社大西 代表取締役会長 大西隆氏

ライフヒストリー

セルフ現金問屋業態の開発
株式会社大西 代表取締役会長 大西隆氏  大西隆氏は昭和8年7月、三重県伊勢市で生まれた。
「おやじ(大西信平氏)は、伊勢市で小間物化粧品卸をしていました。昭和24年に繊維品の統制が解除されたため、おやじは大阪市に出て、繊維卸も始めることになったんです。私は中学を卒業する年だったので、『お前も大阪の学校に』という父の命に従って大阪市立天王寺商業高に進学しました。卒業後は家業を継ぐものと覚悟していたので、大阪に来ることに何も抵抗はありませんでした。
 高校を卒業し、父が経営していた繊維卸の『大西衣料』を手伝うことになりました。梅田の繊維街にあった小さな3店舗のうち、『マルキチ』を任されました。番頭さんはいたが、20歳にもならない私が店を切り盛りしていました。ある日、泉大津のメリヤスメーカーが『肌着を扱ってくれ』と見本を持って来ました。学校の先生を辞めて、家業を手伝っているとかで、まじめな人でしたので、『おたくが作った分、みんな買うわ』と即決しました。
 ところが、毎日、肌着が届き、狭い店に入らなくなりました。結局、東京の得意先の1つで、セルフ方式の現金卸をしていた都繊維に引き取ってもらいました。そこから私は、父の問屋を手伝うかたわら都繊維の仕入れ担当に頼まれて、大阪の繊維メーカーを回って仕入れた商品を都繊維にも回していました。都繊維は、現金払いでバラ売りをやっていました。その繁盛ぶりを父に伝えていたから、父も現金問屋をやる気になったのだと思います。
 ところが、全然売れずに赤字続きでした。たまりかねて、都繊維の社長に相談に行ったところ、『夏物は7月が勝負、もう少し我慢しては』とアドバイスされました。助言通り、7月に入って急に売れ始めました。当時、現金問屋の基本は5%の粗利益、3%の経費、2%の利益。そのうち1%は税金で、税引き後利益は1%と決めました。」
 
渡米でセルフ方式学ぶ
 信平氏は、昭和32年にアメリカを視察した。そして貿易部を発足させ、隆氏は貿易部長になった。
「ビジネス面で、もうひとつのターニングポイントを迎えるきっかけは昭和34年の初めての渡米です。 オハイオ州でレジスターのユーザーを対象にしたセミナーに参加しましたが、午前の講義が終わると、スーパーマーケットの見学会。大規模小売店というと日本では百貨店しかない時代です。客が店内で自分の好きな商品を選んでカゴに入れ、レジで支払うセルフサービス方式は、店員の人件費が節約でき、それだけ商品を安く提供できるという原理が魅力でした。」
 
事業の多角化とアパレル業界の激変
 その後、隆氏は業容を拡大させていった。大西衣料以外に、生産機能を持ったセルフインターナショナル、店舗の内装・什器を手がけるセルフ店研、婦人服小売りのビーアレン、小売店のカタログ販売を支援するバルール、ネットワーク利用で自動的に商品を補充するファミリージョイ、カー用品チェーンのドライバースタンドを運営した。
 1990年代になり、アパレル業界は、中国からの低価格品の輸入急増で激変することとなった。そのなかで、大西衣料の売り上げも低下の一途を辿ることになった。隆氏は、新しいビジネスモデルを模索し続けていた。
 
<ケースブック>
 
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  大西隆 −繊維と共に歩んだ道−   大西隆 −卸起点の流通革命への挑戦−  
 
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